徳川家定(とくがわ いえさだ)は、江戸幕府の13代目将軍で、幕府が幕末の動乱期を迎えている時代に将軍職に就いた人物です。病弱で人前に出ることを嫌った家定は「イモ公方」と呼ばれ、実際の政治は側近に任せることが多かったとされています。
そんな家定の治世は、幕府が開国を迫られる時代の大きな転換点でした。今回は、徳川家定の生涯と彼が行ったことについて、サクッと簡単に解説していきます!
13代将軍 徳川家定の生涯年表
まずは、家定の生涯を年表で振り返ってみましょう。
年 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
1824年 | 0歳 | 江戸城で生まれる。 父は12代将軍・徳川家慶、母は正室・本寿院。 |
1837年 | 13歳 | 世子(将軍の後継者)として正式に認められる。 |
1853年 | 29歳 | ペリー来航。 アメリカの黒船が浦賀に来航し、幕府に開国を迫る。 |
1853年 | 29歳 | 父・徳川家慶の死去により、13代将軍に就任。 家定の体調の問題から、幕府内の実権は側近たちに委ねられる。 |
1854年 | 30歳 | 幕府の大老・井伊直弼の指導のもと、日米和親条約を締結。 開国の道を歩み始め、幕府にとって大きな転換点となる。 |
1858年 | 34歳 | 幕府の大老たちが「日米修好通商条約」を締結。 通商を認め、日本は本格的に外国と交易を開始。 |
1858年 | 34歳 | 同年、家定は病により死去。跡を徳川家茂が継ぐ。 |
徳川家定が行ったこと
徳川家定の治世は、幕府が外圧や国内の混乱に直面する、非常に厳しい時期でした。家定は体が弱く、政治に積極的に関わることが難しかったため、彼の治世は幕府内の有力者や大老によって動かされることが多かったと言われています。それでは、彼の時代に起きた主な出来事や政策について解説していきます。
黒船来航と開国
家定の治世における最大の出来事は、1853年のペリー提督率いるアメリカ艦隊の来航、いわゆる「黒船来航」です。この出来事は、日本に対して開国と通商を求めるもので、幕府にとって大きな転換点となりました。
開国への道
家定自身は、体調の問題もあり、黒船来航への積極的な対応を行うことはできませんでした。しかし、幕府はこの事態に対処すべく、大老・井伊直弼(いい なおすけ)らが指導する形で、1854年に「日米和親条約」を締結し、開国の道を歩み始めます。さらに、1858年には「日米修好通商条約」を締結し、外国との交易を開始しました。
これらの条約の締結は、家定自身の決断というよりも、幕府内の有力者たちによって進められたものであり、家定の治世は幕府が外圧に対応するために必死に試行錯誤していた時期だったと言えるでしょう。
これにより、日本は鎖国政策を終わらせ、国際社会に足を踏み入れることとなりました。しかし、この開国は国内の混乱を招き、幕府の威信を揺るがす結果となりました。
将軍継嗣問題と井伊直弼の登用
家定には子供がいなかったため、次の将軍を誰にするかという「将軍継嗣問題」が、幕府内で大きな争点となりました。この問題では、家定の実母である本寿院や有力な家臣たちが対立し、幕府内の派閥争いが激化しました。
井伊直弼の登用
家定の治世において重要な役割を果たしたのが、大老・井伊直弼です。家定の体調がすぐれないこともあり、幕政は井伊直弼を中心に行われることが多くなりました。井伊直弼は、強硬な姿勢で開国に踏み切り、国内外の問題に対応していきます。また、将軍継嗣問題においても、自らの権限で徳川家茂を次期将軍に指名し、幕府の安定を図りました。
家定の治世の特徴と評価
徳川家定の治世は、外圧と国内の混乱が重なり、幕府が大きな試練に直面した時期でした。家定自身は病弱で、政治に積極的に関わることが難しかったため、幕府の実権は大老や側近に握られることが多かったとされています。
家定の治世における評価は、決して高いものではありません。しかし、家定の時代に開国という大きな変革が始まり、幕府が存続のために懸命に対応した姿勢は、幕末の日本にとって重要な転換期だったと言えるでしょう。
まとめ:徳川家定のすごさとは?
徳川家定は、13代目将軍として幕府の存続に尽力した人物です。病弱でありながらも、彼の治世には黒船来航や開国など、幕府の歴史における大きな転換点が訪れました。家定自身は積極的に政治を動かすことができませんでしたが、その治世で起きた出来事は幕末の日本の未来を大きく変えるものでした。
サクッと解説した通り、徳川家定の時代は、幕府が外圧に立ち向かうために試行錯誤していた時期でした。彼の治世が終わり、次の将軍・徳川家茂に引き継がれる中で、幕末の激動の時代がさらに加速していきます。