徳川家斉(とくがわ いえなり)は、江戸幕府の11代目将軍として在職期間が50年にも及び、江戸時代で最も長く将軍職を務めた人物です。彼の治世は、贅沢や華美な文化が栄えた「化政文化」と重なり、江戸幕府にさまざまな変化をもたらしました。今回は、そんな徳川家斉の生涯と彼が行ったことについて、サクッと簡単に解説します!
11代将軍 徳川家斉の生涯年表
まずは、家斉の生涯を年表で見ていきましょう。
年 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
1773年 | 0歳 | 一橋徳川家で生まれる。 父は一橋治済(はるさだ)、母は豊姫。 |
1781年 | 8歳 | 徳川家治の養子となる。 一橋家から将軍家への養子として選ばれ、将軍継嗣の立場に。 |
1787年 | 14歳 | 10代将軍・徳川家治の死去により、11代将軍に就任。 史上最年少の将軍となる。 |
1789年 | 16歳 | 松平定信(まつだいら さだのぶ)が老中首座に就任し、「寛政の改革」を開始。 家斉の時代に幕府の立て直しを図る改革が進む。 |
1804年 | 31歳 | 将軍として長期在職し、化政文化(かせいぶんか)が隆盛。 豪華絢爛な文化が江戸を彩る。 |
1830年 | 57歳 | 「天保の飢饉」が発生。 全国的な飢饉に対し、幕府は米の備蓄を放出するなどの対策を行うが、十分な対応には至らなかった。 |
1837年 | 64歳 | 将軍職を退き、徳川家慶に引き継ぐ。 その後も隠居しながら幕府に影響力を持つ。 |
1841年 | 68歳 | 江戸城で死去。 歴代将軍の中でも特に長い在職期間を持つ将軍として歴史に刻まれる。 |
徳川家斉が行ったこと
家斉の治世は、江戸幕府の歴史の中で非常に特徴的な時期です。彼は豪華な文化と贅沢な暮らしを好み、多くの子供をもうけました。しかし、家斉自身は積極的な政治を行うというより、側近や老中たちに政治を任せるスタイルをとっていました。それでは、彼の時代に起きた主な出来事や政策について解説していきます。
寛政の改革
家斉の治世中に実施された大きな政策のひとつが、老中・松平定信による「寛政の改革(かんせいのかいかく)」です。寛政の改革は、幕府の財政を立て直し、農村の復興を図るための一連の政策であり、質素倹約や思想統制など、さまざまな側面で幕府の改革が進められました。
- 倹約令の発布
豪華な生活を控えさせ、財政の引き締めを図りました。幕府や大名に対して贅沢品の購入を控えるよう指示しました。 - 農村の復興
農村の復興を目指し、農民に対して貧困対策を実施。また、逃散(ちょうさん:農民の逃亡)を防ぐための取り締まりを強化しました。 - 朱子学(しゅしがく)の奨励
武士の道徳教育を強化するため、朱子学を幕府の公式学問とし、教育・思想の統制を行いました。
寛政の改革は家斉の治世を代表する出来事ですが、松平定信の厳しい政策に対しては家斉も反発し、改革は失敗に終わります。
化政文化の繁栄
家斉の治世は、華やかな「化政文化(かせいぶんか)」の時期と重なります。この時代には、歌舞伎、浮世絵、俳句など、さまざまな文化が庶民の間で盛んに行われました。また、裕福な商人たちが、絢爛豪華な生活を楽しむ風潮が広がり、江戸の街は活気に満ち溢れていました。
豪華な生活と多くの子供
家斉の治世を語るうえで欠かせないのが、彼の贅沢な生活です。家斉は15人の側室を持ち、53人の子供(男子26人・女子27人)をもうけたとされています。こうした華美な生活は幕府の財政を圧迫し、後に財政難の一因となりました。
天保の飢饉への対応
家斉の時代、1830年代に「天保の飢饉(てんぽうのききん)」が発生しました。この飢饉は全国的に大きな被害をもたらし、農村は深刻な食糧不足に見舞われました。幕府は米の備蓄を放出して救済策を講じましたが、十分に対処できず、幕府の統治力に疑問を投げかける結果となりました。
まとめ:徳川家斉のすごさとは?
徳川家斉は、約50年もの長い期間、江戸幕府を率いました。彼の時代は、華やかな化政文化が栄え、江戸の街には活気があふれていました。しかし、一方で家斉の贅沢な生活と多くの子供をもうけたことが、幕府の財政難を招き、後に続く改革のきっかけにもなりました。
サクッと解説した通り、家斉のしたことは江戸幕府の歴史において、文化と贅沢を象徴する一方で、幕府の財政問題を露呈させた時代でもありました。彼の治世は、江戸時代の栄光と転機を表す重要な時期だったのです。
- 日本大百科全書(小学館)
- ブリタニカ国際大百科事典
- 『徳川家斉と化政文化』
- 『江戸時代の政治と経済』