【徳川慶喜の生涯】15代最後の将軍は何をした人?江戸城スルーのスマート決断をサクッと解説!

徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は、江戸幕府の15代目最後の将軍として、幕府の終焉を迎えた時代に重要な役割を果たした人物です。彼は、聡明で先見の明があり、激動の幕末において数々の難局に直面しました。今回は、徳川慶喜の生涯と、彼がどのような決断をしたのかについて、サクッと簡単に解説します!

目次

15代将軍 徳川慶喜の生涯年表

まずは、徳川慶喜の生涯を年表で振り返ってみましょう。

征夷大将軍在任時の徳川慶喜
出典:ウィキメディア・コモンズ
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年齢出来事
1837年0歳水戸藩の御三家・徳川斉昭の七男として誕生。幼名は七郎麿。
1847年10歳一橋家に養子として迎えられ、「徳川慶喜」と名乗る。
一橋家の当主として育てられ、後継者教育を受ける。
1858年21歳将軍継嗣問題で一橋派と南紀派が対立。
最終的に徳川家茂が14代将軍に決定する。
1862年25歳将軍後見職に就任し、幕府の改革を進める。
一橋派として幕政に参加。
1863年26歳禁裏御守衛総督に就任。京都の治安維持や朝廷との関係強化に努める。
1866年29歳徳川家茂の死去により、15代将軍に就任。
この時期から、幕府はさらなる内外の問題に直面することとなる。
1867年30歳「大政奉還」を実施し、政権を朝廷に返上。
この決断により、260年続いた江戸幕府が終焉を迎える。
1868年31歳「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が敗北。
戦況の不利を悟り、大坂城から江戸へ船で逃げ帰る。
その後、江戸城無血開城を実現し、江戸の平和的な移行に貢献。
1913年76歳東京で死去。
長寿を全うし、幕末から明治時代にかけての変革を見届けた人物として語り継がれる。

徳川慶喜が行ったこと

徳川慶喜の時代は、江戸幕府の終焉と日本の近代化が始まる激動の時期でした。彼は最後の将軍として、日本の歴史における重要な転換点を作り出した人物です。それでは、慶喜の時代に行われた主な出来事について詳しく見ていきましょう。

大政奉還と幕府の終焉

邨田丹陵『大政奉還図』
出典:ウィキメディア・コモンズ

徳川慶喜の生涯で最も有名な出来事が、1867年の「大政奉還」です。大政奉還とは、慶喜が江戸幕府の政権を朝廷に返すことを決断した出来事です。これにより、260年以上続いた江戸幕府は事実上終了し、日本は新しい時代への第一歩を踏み出しました。

慶喜は、幕府と朝廷、そして諸藩の対立が激しくなる中で、武力衝突を避けるために大政奉還を選択しました。これにより、日本は戦乱を最小限に抑えながら近代国家へと移行する道を選んだのです。この決断は、日本の歴史における大きな転換点となりました。

鳥羽・伏見の戦いと江戸城無血開城

慶喜のもう一つの重要なエピソードが、1868年の「鳥羽・伏見の戦い」です。新政府軍との戦いにおいて旧幕府軍は敗北を喫しました。この時、慶喜は戦況の不利を悟り、大坂城から江戸へ船で逃げ帰ります。この行動は、当時の幕臣たちから批判されましたが、戦局が絶望的であることを冷静に判断したものでした。

その後、慶喜は徹底抗戦を選ばず、江戸城無血開城を実現します。これは、西郷隆盛と勝海舟との交渉によるもので、江戸の市民を戦乱の被害から守るためのものでした。この無血開城により、江戸は平和的に新政府の支配下に移行しました。慶喜のこの冷静な判断と平和を優先した行動は、歴史的に大きな意義を持ちます。

慶喜は江戸城に入った事がない唯一の将軍

徳川慶喜は将軍として一度も江戸城に入ることがなかった人物です。これは、歴代の将軍の中で唯一のケースであり、幕府の動揺と慶喜自身の独特の立ち位置を象徴しています。将軍でありながら江戸城に入らず、時代の変わり目に新しい形で政権のかじ取りを行った彼の姿は、歴史に大きく刻まれています。

まとめ:徳川慶喜のすごさとは?

徳川慶喜は、江戸幕府最後の将軍として、日本の歴史における大きな転換期を担った人物です。彼が行った大政奉還や江戸城無血開城は、日本を内戦から守り、平和的な時代の移行を可能にしました。これらの決断は、将軍としての責任と日本の未来を見据えたものであり、幕府が終わりを迎える際に最良の選択をしたと評価されています。

サクッと解説した通り、徳川慶喜の生涯は、幕府の終焉と日本の近代化への幕開けを象徴しています。彼の生き様は、江戸時代から明治時代への架け橋となり、日本の歴史に多大な影響を与えました。

参考文献

  • 日本大百科全書(小学館)
  • ブリタニカ国際大百科事典
  • 『徳川慶喜と幕末維新の軌跡』
  • 『幕末と明治維新の歴史』
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