【徳川家茂の生涯】14代目将軍は何をした人?幕末の動乱と上洛奮闘記をサクッと解説!

徳川家茂(とくがわ いえもち)は、江戸幕府の14代目将軍として、幕末の激動の時代に幕府を率いた人物です。家茂の時代は、幕府が国内外の多くの問題に直面していた時期であり、彼自身も若くして大きな決断を迫られることとなりました。今回は、徳川家茂の生涯と彼が行ったことについて、サクッと簡単に解説していきます!

目次

14代将軍 徳川家茂の生涯年表

徳川家茂像|川村清雄筆
出典:ウィキメディア・コモンズ
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年齢出来事
1846年0歳紀州藩邸(現在の和歌山県)で誕生。
父は紀州藩主・徳川斉順(とくがわ なりゆき)、母は正室・愛姫。
1858年12歳13代将軍・徳川家定が死去。
大老・井伊直弼の推薦により、紀州藩から徳川家茂が14代将軍に就任。
1860年14歳桜田門外の変が起きる。
大老・井伊直弼が暗殺され、幕府内での権力争いが激化。
1862年16歳孝明天皇の妹・和宮と結婚。
幕府と朝廷の融和を図る。
1863年17歳長州藩との対立が深まり、8月18日の政変が発生。
幕府と長州藩が対立するきっかけとなる。
1864年18歳第一次長州征伐を決行。
長州藩を制圧しようとするも、決着には至らず。
1865年19歳幕府がフランスとの軍事協力を強化。
近代化への道を模索し始める。
1866年20歳第二次長州征伐を開始。
しかし戦況が思わしくなく、幕府の威信が揺らぐ。
1866年20歳第二次長州征伐の最中、病により大坂城で死去。
次の将軍は15代将軍・徳川慶喜が継ぐ。

徳川家茂が行ったこと

徳川家茂の時代は、幕府が幕末の動乱の中で揺れ動いていた時期です。家茂自身は若くして将軍職に就き、様々な難題に直面しました。特に、外国勢力との交渉や国内の対立が激しくなり、家茂はこれらの問題に取り組むことを余儀なくされました。それでは、彼の時代に行われた重要な出来事や政策について見ていきましょう。

和宮との結婚と朝廷との関係

家茂の治世において注目すべき出来事の一つが、孝明天皇の妹・和宮との結婚です。これは、幕府と朝廷の関係を円滑にし、国内の安定を図るための政治的な結婚でした。和宮は、最初は幕府に対して好意的ではなかったものの、家茂の誠実な態度により、次第に信頼を寄せるようになりました。この結婚は、幕府と朝廷の融和を象徴するものであり、家茂の努力がうかがえる点です。

長州藩との対立と征伐

家茂の時代、国内では薩摩藩や長州藩といった雄藩が台頭し、幕府に対抗する動きを見せていました。特に、長州藩との対立は激化し、1863年の「8月18日の政変」では長州藩の勢力が京都から追い出されることとなります。

その後、幕府は長州藩を制圧するため、1864年に「第一次長州征伐」を行いました。しかし、この戦いでは決定的な勝利を収めることができず、幕府の権威を示すには至りませんでした。

第二次長州征伐と家茂の最期

1866年、幕府は再び長州藩を制圧しようと「第二次長州征伐」を開始しました。しかし、この戦いでも思うような戦果を上げられず、幕府の威信は大きく揺らぎました。まさにこの戦いの最中、家茂は病に倒れ、大坂城でその短い生涯を終えました。

家茂の死は、幕府にとって大きな痛手であり、後を継いだ徳川慶喜は、幕府の存続に向けてさらなる困難に立ち向かうこととなります。

幕府の近代化への模索

家茂の治世では、幕府がフランスとの軍事協力を強化するなど、近代化への道を模索する姿勢も見られました。欧米列強との外交関係が拡大する中で、日本は軍事力の強化や産業の発展を目指すようになります。家茂の治世においては、これらの近代化政策の準備が進められたものの、実現する前に家茂の死を迎えることとなりました。

まとめ:徳川家茂のすごさとは?

徳川家茂は、わずか20歳という若さでその生涯を終えましたが、彼の治世は幕末の動乱期における幕府の姿を映し出しています。彼自身は若くして大きな重責を背負い、幕府の安定に努めましたが、時代の流れは幕府にとって厳しいものでした。

サクッと解説した通り、家茂の時代には開国後の混乱、朝廷との関係の再構築、そして国内の対立といった様々な課題が山積みでした。家茂の努力は、後の幕府の動きに影響を与え、幕末の歴史における重要な一コマを形作ったと言えるでしょう。

参考文献

  • 日本大百科全書(小学館)
  • ブリタニカ国際大百科事典
  • 『徳川幕末史』
  • 『徳川家茂と幕末の動乱』
  • 『江戸時代の終焉と近代日本の誕生』
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