【徳川家継の生涯】7代目将軍は短い生涯で何をした?江戸に残した軌跡をサクッと解説!

徳川家継(とくがわ いえつぐ)は、江戸幕府の7代目将軍として、幼少ながらも徳川家を支えた人物です。彼の将軍在職期間はわずか3年という短さでしたが、その生涯には多くの出来事が詰まっています。今回は、徳川家継の生涯と彼が成し遂げたことについて、簡単にサクッと解説します!

目次

徳川家継の生涯年表

徳川家継
出典:ウィキメディア・コモンズ

まずは、家継の生涯を詳しく年表で見ていきましょう。

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年齢出来事
1709年0歳江戸城で生まれる。父は6代将軍・徳川家宣、母は側室・お喜世の方。
1710年1歳「家継」と命名され、将軍家の嫡男として育てられる。
1712年3歳父・徳川家宣が死去。わずか3歳で将軍家の跡継ぎとなる。
1713年4歳7代将軍に就任。幼少のため、幕政は側用人・間部詮房(まなべ あきふさ)や儒学者・新井白石によって行われる。
1714年5歳「正徳の治(しょうとくのち)」が本格化。新井白石の指導のもと、貨幣の質向上や財政再建を図る政策が続く。
1715年6歳公家や大名の交流が活発化。新井白石による文化政策により、朝廷との関係がさらに良好になる。
1716年8歳江戸城で死去。病弱であったため長生きできず、将軍在職期間はわずか3年だった。家継の死後、8代将軍には徳川吉宗が就任。

徳川家継がしたこと

徳川家継は、3歳という幼さで将軍になったため、自らが直接行った政策はありません。しかし、家継の将軍在職期間中に、周囲の人々が行った政策や改革が、後の江戸時代に大きな影響を与えました。ここでは、家継の時代に起きた重要な事柄について解説します。


新井白石による「正徳の治」

家継の時代、実際に幕府を動かしていたのは、儒学者で政治家の新井白石でした。彼が家宣時代から引き続き行った一連の改革は、「正徳の治」と呼ばれています。この正徳の治は、家継の治世においても続けられ、江戸幕府の安定に大きく寄与しました。

正徳の治の主な施策

貨幣制度の改革

質の悪かった貨幣を改鋳し、経済の安定を図ることで、幕府の信用を回復。

倹約令の実施

将軍家を含むすべての武士に対して、無駄な出費を避けるよう指示。これにより、幕府や各藩の財政が改善された。

外交政策の見直し

貿易を制限し、国内経済の健全化を目指す政策が引き続き行われた。

家継自身が政策に直接関与することはなかったものの、新井白石の指導のもとで「正徳の治」は着実に進められ、江戸時代の長期安定を支える重要な基盤を築きました。

幕府と朝廷の関係の強化

家継の時代には、幕府と朝廷の関係がより良好になるような政策も進められました。新井白石は、天皇や公家たちとの交流を積極的に行い、幕府と朝廷の関係を強化しました。これは、徳川幕府の権威を高めるとともに、江戸時代の文化発展にも寄与しました。

家継の死とその後

家継は病弱であったため、わずか8歳でこの世を去りました。家継の死後、江戸幕府は次の将軍として徳川吉宗を迎え入れます。家継の治世が短かったため、彼自身が行ったことは少ないものの、家継の時代に続いた「正徳の治」は、次の吉宗の「享保の改革」につながる重要な出来事でした。

まとめ:徳川家継のすごさとは?

徳川家継は、自ら政策を行うことはなかったものの、彼の時代に行われた「正徳の治」が、江戸幕府の安定に大きな影響を与えたことは間違いありません。3歳で将軍となり、わずか8歳でその生涯を終えた家継。しかし、彼を支えた新井白石の改革は、幕府の財政や政治の立て直しに貢献しました。

サクッと解説した通り、家継のしたこととは、周囲の人々の支えによって将軍としての務めを果たし、江戸時代の安定の一端を担ったことです。短い生涯ではありましたが、彼の時代に行われた政策は、後に続く江戸幕府の歴史に深く刻まれています。

参考文献

  • 日本大百科全書(小学館)
  • ブリタニカ国際大百科事典
  • 『徳川家継と正徳の治』
  • 『江戸時代の政治と経済』
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