徳川家継(とくがわ いえつぐ)は、江戸幕府の7代目将軍として、幼少ながらも徳川家を支えた人物です。彼の将軍在職期間はわずか3年という短さでしたが、その生涯には多くの出来事が詰まっています。今回は、徳川家継の生涯と彼が成し遂げたことについて、簡単にサクッと解説します!
徳川家継の生涯年表
まずは、家継の生涯を詳しく年表で見ていきましょう。
年 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
1709年 | 0歳 | 江戸城で生まれる。父は6代将軍・徳川家宣、母は側室・お喜世の方。 |
1710年 | 1歳 | 「家継」と命名され、将軍家の嫡男として育てられる。 |
1712年 | 3歳 | 父・徳川家宣が死去。わずか3歳で将軍家の跡継ぎとなる。 |
1713年 | 4歳 | 7代将軍に就任。幼少のため、幕政は側用人・間部詮房(まなべ あきふさ)や儒学者・新井白石によって行われる。 |
1714年 | 5歳 | 「正徳の治(しょうとくのち)」が本格化。新井白石の指導のもと、貨幣の質向上や財政再建を図る政策が続く。 |
1715年 | 6歳 | 公家や大名の交流が活発化。新井白石による文化政策により、朝廷との関係がさらに良好になる。 |
1716年 | 8歳 | 江戸城で死去。病弱であったため長生きできず、将軍在職期間はわずか3年だった。家継の死後、8代将軍には徳川吉宗が就任。 |
徳川家継がしたこと
徳川家継は、3歳という幼さで将軍になったため、自らが直接行った政策はありません。しかし、家継の将軍在職期間中に、周囲の人々が行った政策や改革が、後の江戸時代に大きな影響を与えました。ここでは、家継の時代に起きた重要な事柄について解説します。
新井白石による「正徳の治」
家継の時代、実際に幕府を動かしていたのは、儒学者で政治家の新井白石でした。彼が家宣時代から引き続き行った一連の改革は、「正徳の治」と呼ばれています。この正徳の治は、家継の治世においても続けられ、江戸幕府の安定に大きく寄与しました。
貨幣制度の改革
質の悪かった貨幣を改鋳し、経済の安定を図ることで、幕府の信用を回復。
倹約令の実施
将軍家を含むすべての武士に対して、無駄な出費を避けるよう指示。これにより、幕府や各藩の財政が改善された。
外交政策の見直し
貿易を制限し、国内経済の健全化を目指す政策が引き続き行われた。
家継自身が政策に直接関与することはなかったものの、新井白石の指導のもとで「正徳の治」は着実に進められ、江戸時代の長期安定を支える重要な基盤を築きました。
幕府と朝廷の関係の強化
家継の時代には、幕府と朝廷の関係がより良好になるような政策も進められました。新井白石は、天皇や公家たちとの交流を積極的に行い、幕府と朝廷の関係を強化しました。これは、徳川幕府の権威を高めるとともに、江戸時代の文化発展にも寄与しました。
家継の死とその後
家継は病弱であったため、わずか8歳でこの世を去りました。家継の死後、江戸幕府は次の将軍として徳川吉宗を迎え入れます。家継の治世が短かったため、彼自身が行ったことは少ないものの、家継の時代に続いた「正徳の治」は、次の吉宗の「享保の改革」につながる重要な出来事でした。
まとめ:徳川家継のすごさとは?
徳川家継は、自ら政策を行うことはなかったものの、彼の時代に行われた「正徳の治」が、江戸幕府の安定に大きな影響を与えたことは間違いありません。3歳で将軍となり、わずか8歳でその生涯を終えた家継。しかし、彼を支えた新井白石の改革は、幕府の財政や政治の立て直しに貢献しました。
サクッと解説した通り、家継のしたこととは、周囲の人々の支えによって将軍としての務めを果たし、江戸時代の安定の一端を担ったことです。短い生涯ではありましたが、彼の時代に行われた政策は、後に続く江戸幕府の歴史に深く刻まれています。
- 日本大百科全書(小学館)
- ブリタニカ国際大百科事典
- 『徳川家継と正徳の治』
- 『江戸時代の政治と経済』