【マリー・アントワネットの生涯】あの名言はデマ!?何をした人かサクッと解説

マリー・アントワネットといえば、「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」の名言や豪華なドレス、ヴェルサイユ宮殿の華やかな暮らしで有名です。しかし、マリー・アントワネットの生涯は単なる贅沢や贅沢品の象徴だけではなく、フランス革命という激動の時代に翻弄された一人の女性としても捉えることができます。この記事では、マリー・アントワネットの生涯や、何をした人なのかを分かりやすく解説します。

目次

マリー・アントワネットの生涯年表

以下に、マリー・アントワネットの主な出来事を年表でまとめました。

バラを持つマリー・アントワネット(1783)
出典:ウィキメディア・コモンズ
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年齢出来事
1755年0歳オーストリアのウィーンで誕生。
オーストリア皇帝フランツ1世と皇后マリア・テレジアの第15子。
1770年14歳フランスとの同盟関係を強化するため、フランス王太子ルイ16世と結婚。
盛大な結婚式がヴェルサイユ宮殿で行われ、オーストリアからフランスへ移住する。
1774年18歳ルイ15世の死去により、夫ルイ16世がフランス王に即位。
マリー・アントワネットがフランス王妃となる。
1778年23歳長女マリー・テレーズが誕生。
1781年26歳長男ルイ・ジョゼフが誕生。
王位継承者の誕生はフランス王室にとって重要な出来事であり、祝賀ムードに包まれる。
1785年30歳次男ルイ・シャルル(後のルイ17世)が誕生。同年、「首飾り事件」が発生し、王妃が贅沢家であるとの悪評が広まる。
1786年31歳次女ソフィー・ベアトリスが誕生。
しかし、早産で体が弱く、生後わずか1年足らずで亡くなる。
1789年34歳「フランス革命」が勃発。
王室一家はパリのテュイルリー宮殿に移される。

同年、長男ルイ・ジョゼフが結核により8歳で死去。
1791年36歳王室一家がオーストリアへの逃亡を図る(ヴァレンヌ逃亡事件)。
しかし、途中で捕らえられ、国民の信頼を失う。
1792年37歳8月10日事件により、テュイルリー宮殿が襲撃され、王政が崩壊。
王室一家はタンプル塔に監禁される。
同年、フランスは共和制を宣言し、ルイ16世とマリー・アントワネットの王位は正式に廃止される。
1793年1月37歳夫ルイ16世が反逆罪で処刑される。
マリー・アントワネットはさらに孤立し、監禁生活の中で子供たちとも引き離される。
1793年10月38歳マリー・アントワネットが革命裁判にかけられる。
10月16日、反逆罪などの罪で有罪判決を受け、パリのコンコルド広場でギロチンによる公開処刑が行われる。
その最期は毅然とした態度で迎えたと伝えられている。

マリー・アントワネットは何をした人?

サクッと解説

政略結婚でフランス王妃に

  • オーストリアとフランスの同盟を強化するために14歳でフランス王太子と結婚し、政治や外交に影響を与える立場に立った。

華やかな暮らしと贅沢への批判

  • 豪華なドレスや贅沢な生活を楽しんだが、王室の財政難や首飾り事件により国民から批判を浴びた。

「パンがなければケーキを食べれば」の誤解

  • 実際には彼女の発言ではなく、彼女を批判するために広まったデマ。

オーストリアからフランスへの「政略結婚の駒」

マリー・アントワネットは、オーストリア皇帝フランツ1世と皇后マリア・テレジアの娘として生まれました。彼女はオーストリアとフランスの同盟強化のために、14歳でフランス王太子ルイ16世と結婚します。この結婚は、国同士の関係を安定させるための「政略結婚」であり、彼女自身の意思が尊重されたわけではありません。しかし、この結婚により彼女はフランスの王妃として、政治や社会に影響を与える立場に立つことになりました。

華やかで批判された王妃

フランス王妃となったマリー・アントワネットは、ヴェルサイユ宮殿で贅沢な生活を楽しみました。豪華なドレスやアクセサリー、プチ・トリアノンという離宮での田舎風生活など、彼女の浪費癖は王室の財政難と相まって国民の怒りを買いました。

しかし、実際には彼女だけが贅沢をしていたわけではありません。当時のフランス王室全体が財政管理に問題を抱えていたため、彼女の浪費はその一部にすぎませんでした。「首飾り事件」もその一例です。1785年に起きたこの事件では、彼女が関与していないにもかかわらず、詐欺の疑いをかけられ、悪評が一気に広まってしまいました。

フランス革命と王妃の苦悩

1789年にフランス革命が勃発すると、王政に対する国民の不満が一気に噴き出しました。王室一家はパリに移され、かつての華やかな生活から一転、監視下の厳しい生活を強いられるようになります。さらに、マリー・アントワネットは「浪費家」「反逆者」として国民から敵視されました。

1791年の「ヴァレンヌ逃亡事件」は、彼女の立場をさらに悪化させます。王室一家は革命の混乱から逃れるためにオーストリアへ逃亡しようとしますが、途中で捕まり、国民の信頼を完全に失います。この出来事により、マリー・アントワネットは「国を裏切った王妃」としてのイメージが決定づけられました。

反逆者としての処刑

1792年にフランスは共和制を宣言し、王政は完全に廃止されました。王室一家はタンプル塔に監禁され、翌年にはルイ16世が処刑されます。そして、1793年、マリー・アントワネットも反逆罪に問われ、公開裁判の末にギロチンで処刑されました。彼女の死は、王政から共和制への転換を象徴する歴史的な出来事となりました。

まとめ

マリー・アントワネットの生涯は、王妃としての華やかさと、フランス革命という激動の時代に翻弄された悲劇が入り混じるものでした。彼女は、オーストリアとフランスの同盟を象徴する存在であり、また、王政から共和制への移行期において国民の不満の矛先となった人物でもあります。マリー・アントワネットの物語を知ることで、当時のヨーロッパの政治や社会の複雑さ、そして民衆と王室の関係をより深く理解することができるでしょう。

参考文献

  • 『マリー・アントワネット』シュテファン・ツヴァイク
  • 『フランス革命の女たち』西川長夫
  • 『ヴェルサイユ宮殿の生活』ダニエル・ロシュ
  • 『世界の歴史12 近代ヨーロッパと世界』山川出版社
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