1795年6月8日、パリのタンプル塔の一室で、10歳の少年が息を引き取った。
その子の名はルイ=シャルル。マリー・アントワネットとルイ16世の息子であり、王党派から「フランス国王ルイ17世」と称された少年だ。
死の直前、診察のために呼ばれた医師は部屋に入った瞬間、絶句した。悪臭が立ちこめる薄暗い部屋で、少年は立つことさえできなくなっていた。頭と首には大きな腫れ物、背中は曲がり、体のあちこちに腫瘍ができて激痛を訴えていた。
医師はこう書き残した。「出くわした子供は死にかけている。最も救いがたい惨状と放棄の犠牲者で、最も残忍な仕打ちを受けたのだ。なんたる犯罪だ!」
しかしこの少年の死は、その後も長く謎に包まれ続けた。「本当に死んだのか」「心臓はどこへ消えたのか」「替え玉がいたのではないか」——200年以上にわたって語り継がれてきた3つの謎を、この記事で徹底的に考察する。
ルイ17世とは何者か——ヴェルサイユの寵児
ルイ=シャルルは1785年3月27日、ヴェルサイユ宮殿で生まれた。ルイ16世とマリー・アントワネットの次男で、兄ルイ=ジョゼフが1789年に4歳で夭逝したため、4歳で王太子となった。
整った目鼻だちの美しい容姿を持ち、活発で愛嬌のある性格から宮廷内の人々にとても愛された。母マリー・アントワネットからは「愛のキャベツ」の愛称で寵愛された。
豪華なヴェルサイユ宮殿で何不自由なく育ったこの少年が、わずか10年後に孤独と虐待の中で命を落とすことになるとは、誰も想像していなかった。
フランス革命——一家の転落の始まり
1789年7月14日、フランス革命が勃発した。バスティーユ牢獄が民衆に襲撃され、王権は一夜にして崩れ始めた。
国王一家はパリのテュイルリー宮殿に移され、事実上の軟禁状態に置かれた。1791年6月、一家はオーストリアへの逃亡を試みたが失敗(ヴァレンヌ事件)。1792年8月10日の事件を経て、同月13日に一家全員がタンプル塔に幽閉された。このときルイ=シャルルは6歳だった。
タンプル塔での初期の生活は、比較的穏やかだった。父から地理を教わり、叔母エリザベートから勉強を教わるなど、家族水入らずの時間が続いた。しかしこの平穏は長く続かなかった。
1793年1月21日、父ルイ16世がギロチンで処刑された。
地獄の始まり——靴屋シモンによる「再教育」
父の処刑後、革命政府はルイ17世を「良き市民」に作り変えるための計画を実行に移す。
1793年7月3日午後9時、ルイ17世は母から引き離され、公安委員会が任命した靴屋アントワーヌ・シモンと妻マリー・ジャンヌの元で過ごすことになった。
シモンはまともに読み書きもできない男だったが、「貴族的な性質を取り除き、良き革命市民に育てる」という命令を受けていた。
シモン、エベール、パリ・コミューンの指導者ショーメットによる再教育が行われた。革命党員の制服を着せ、「ラ・マルセイエーズ」などの革命歌を歌わせ、カトリックや王室の家族を冒涜する言葉を教え込んだ。やがて教育は虐待が加わり、具合が悪くなるまで無理やり酒を飲ませたり、「ギロチンにかけて殺す」とまで脅した。暴力は日常茶飯事となり、番兵たちも虐待を見るのを嫌がったというパリ・コミューン総会議事録の記載も残されている。
さらにシモンは、マリー・アントワネットを処刑するための証拠を作るため、ルイ17世に「母による近親相姦があった」という虚偽の証言をさせた。洗脳された8歳の少年は、そのまま署名してしまう。この証言は後に革命裁判でマリー・アントワネットへの追及に使われた。
なおシモンによる虐待については、王党派の記述が強調する傾向があり、実態については諸説ある点も付記しておく。シモン夫妻がルイ17世をかわいがっていた節もあり、当時の記録はそれを残した者の立場によってかなり異なる。
完全な孤立——半年間の闇

出典:エジッド・シャルル・ギュスターヴ・ワッパーズ, パブリックドメイン, via Wikimedia Commons
1794年1月19日、シモン夫妻はタンプル塔を去った。しかし次の後見人は指名されなかった。
もともと家族の食堂だった8畳ほどの光も風も通さない部屋に、ルイ17世は押し込まれて放置された。トイレがなく部屋の掃除もされず、1日に1度だけ、小さな窓からパンとスープが差し出されるだけだった。本やおもちゃも与えられず、ろうそくの使用も着替えの差し入れも禁止された。
部屋には悪臭が立ちこめ、窓は釘で打ちつけられ、外界との接触を絶たれた。同時代の記録には、彼が壁に怯えながら独り言を呟いていたとある。
この頃、母マリー・アントワネットは1793年10月16日に処刑されていた。叔母エリザベートも1794年5月に処刑。タンプル塔には、ルイ17世と姉マリー・テレーズの2人だけが残されていた——ただし姉は上の階に幽閉されており、互いに会うことはできなかった。
テルミドール9日のクーデター(1794年7月27日)ののち、ポール・バラスがルイ17世を訪問したとき、ルイ17世は処遇について不平を言わなかったが、恐怖によりできなかったとされている。いずれにせよ、バラスはルイ17世が監護放棄の状態で放置されていたと記述した。
死の直前——医師の証言
クーデター後、状況は少し改善された。新しい保護者として植民地出身のローランが任命され、屋上での散歩も許可された。しかしルイ17世はすでに重篤な状態だった。
ルイ17世は10月末より一言も発さなくなった。
1795年5月、独房に入れられて初めて医師の診察が許可された。医師ドゥゾーが残した記録によれば、汚物と虫にまみれたその部屋で、ルイ17世は立つこともできなくなっており、頭と首には大きな腫れ物ができ、背中が曲がり、体のあちこちに腫瘍ができて激痛を訴えていた。
ドゥゾーは「なんたる犯罪だ」と嘆いたが、その6月1日に急死した。医師とその助手が相次いで謎の死を遂げたことは、当時から不審がられていた。
新たな主治医ペルタンが派遣されたが、すでに手遅れだった。
1795年6月8日、ルイ17世は10歳で息を引き取った。
謎① 心臓はどこへ消えたのか

出典:ウィキメディア・コモンズ
ルイ17世の死後、遺体は解剖された。解剖に携わった医師の一人がルイ17世の心臓を持ち去って保管していた。
心臓はその後、様々な人物の手を経てヨーロッパを転々とした。スペイン王室に渡り、さらにオーストリアのハプスブルク家へと移った。長い年月の間に何度も行方不明になりかけながら、奇跡的に保存され続けた。
王太子ルイの心臓は、クリスタルの花瓶に入れられて、パリ郊外のサン=ドニの大聖堂に保管されている。
200年以上にわたってさまよい続けたその心臓が、最終的に証拠として使われることになる。
謎② 本当に死んだのか——30人以上の「偽ルイ17世」
ルイ17世の死後、「実は生き延びていたのではないか」という生存説が各地で囁かれた。
理由はいくつかある。まず「替え玉死亡説」だ。王党派の間では、ルイ17世の存在が王政復活の希望の象徴とされ、長い間、彼の遺体の行方や本当の死因は謎に包まれていた。もし生きているなら、王政復古の正統な旗印になれる。生存説を信じたい政治的な動機が、噂を拡大させた。
さらにシモン夫妻が急にタンプル塔を去った不自然さ、姉マリー・テレーズが比較的良い待遇だったのに対してルイ17世が虐待されたという格差、そしてバラス訪問時には話したのにその後は一言も発しなくなった不自然さ——これらが「本物はすでに逃げており、残されたのは替え玉だったのでは」という疑念を生んだ。
世界各地で自らをルイ17世だと名乗る偽者が次々と現れ、その数は30人以上にも及んだ。
中でも最も有名な「偽ルイ17世」が、カール・ヴィルヘルム・ナウンドルフという人物だ。プロイセン出身の時計職人だったナウンドルフは1833年にフランスに現れ、「自分こそ本物のルイ17世だ」と主張した。知られていないはずの王室の細部まで正確に語り、マリー・テレーズや側近たちを驚かせた。彼は1845年にオランダで死去したが、墓石には「ルイ17世、フランス国王」と刻まれた。ナウンドルフの子孫たちは今日に至るまでフランス王位の継承権を主張し続けている。
謎③ DNA鑑定が200年後に出した答え
2000年、この長年の謎にDNA科学が答えを出した。
ルイ17世の残した心臓の一部と、マリー・アントワネットの遺髪から採取したDNAで親子鑑定を実施した。その結果、間違いなく親子であることが証明された——つまり、10歳の時に間違いなく死亡していたことが証明された。
さらにナウンドルフの子孫のDNAとも比較鑑定が行われたが、マリー・アントワネットのミトコンドリアDNAとは一致しなかった。30人以上いた「偽ルイ17世」の中で最も信憑性が高かったナウンドルフの主張も、科学によって否定されたのだ。
ルイ17世の死因が結核であったことも確認され、王政復古派が唱えた陰謀説や生存説は、ほとんどのケースで否定されることとなった。
200年以上にわたって語り継がれてきた生存説に、ついに終止符が打たれた。
家族の再会——サン=ドニ大聖堂へ
2004年、ルイ17世の遺骨は両親と同じくフランス王家代々の墓地があるサン=ドニ大聖堂へ再度埋葬され、無言の再会を果たした。心臓の方は今もクリスタルの壺に入れられて公開されている。
生前、家族から引き離されたまま孤独に死んでいったルイ17世は、200年以上の時を経て、ようやく父と母の傍らに安置された。
ルイ17世の死が問いかけるもの
ルイ17世は何の罪も犯していなかった。王の息子として生まれたという、ただそれだけの理由で、6歳からタンプル塔に幽閉され、8歳から虐待を受け、10歳で死んだ。
「正義」が子どもを犠牲にしてまで貫かれるべきものだったのか——という、時代を超えた倫理の問題がそこにある。
「革命の正義」という言葉のもとで、一人の子どもが何を失ったのか。その問いは、200年以上が経った今も色褪せない。
姉マリー・テレーズはルイ17世の死を知り、こう言った。「弟を殺害した唯一の毒は、捕え人の残忍な行為である」と。
- “Louis XVII and the Mystery of His Death.” National Geographic.
- Johan Reinhard’s website.
- “The Heart of Louis XVII: DNA and History.” Science Daily.
