【徳川秀忠の生涯】やったことをサクッと解説!江戸幕府を支えた2代目のスゴさ

徳川家康が開いた江戸幕府。その後を継いだのが、2代将軍・徳川秀忠(とくがわ ひでただ)です。家康の息子として生まれ、将軍の座を引き継いだ秀忠は、江戸幕府の基盤を強化し、平和な時代の土台を築きました。今回は、徳川秀忠の生涯と彼がやったことについて、簡単に、わかりやすく紹介していきます。

目次

徳川秀忠の生涯

徳川秀忠
出典:ウィキメディア・コモンズ

まずは、徳川秀忠がどんな人物だったのか、生涯を年表でざっくり見てみましょう!

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年齢出来事
1579年0歳三河国岡崎(現在の愛知県)で家康の次男として誕生。幼名は「竹千代」。
1590年11歳関東へ移封された家康と共に、江戸に移り住む。
1600年21歳『関ヶ原の戦い』で、東軍の副将として参加するが、戦場に遅刻して家康から叱責を受ける。
1603年24歳父・家康が征夷大将軍に就任し、江戸幕府が開かれる。
1605年26歳家康から将軍職を譲られ、2代将軍となる。幕府の体制強化に取り組む。
1614年〜1615年35歳〜36歳『大坂の陣』で豊臣氏を滅ぼし、徳川の支配体制を確立。
1623年44歳将軍職を息子の徳川家光に譲り、後見役として政務を行う。
1632年54歳死去。遺体は日光東照宮に祀られ、父・家康と共に神として崇められる。

徳川秀忠がやったこと

では、秀忠が江戸幕府の2代将軍としてどんなことをやったのか、詳しく見ていきましょう!

関ヶ原の戦いでの「遅刻事件」

生成AIによるイメージ画像

まず最初に触れたいのが、1600年の「関ヶ原の戦い」です。この戦いで徳川家康が全国制覇を果たしましたが、実はここに秀忠も参加していたんです。ただし、ちょっとしたハプニングが。なんと秀忠は戦場に「遅刻」してしまったんです!

秀忠は信州の上田城に立てこもる真田昌幸(さなだ まさゆき)を攻めていたのですが、これに手間取ってしまい、本戦の関ヶ原に間に合わなかったのです。家康はこの遅刻に激怒し、秀忠はしっかりと叱られました。

この遅刻事件が、後の秀忠の政治姿勢に大きな影響を与えたんです。 以降、秀忠は物事を地道に着実に進める性格となり、幕府の基盤を固めるために努力を惜しまないようになります。

将軍職を受け継ぎ、江戸幕府を強化

1605年、徳川家康から将軍職を譲られた秀忠は、2代将軍として江戸幕府の強化に取り組みます。彼が重視したのは、家康が作り上げた統治システムの維持と強化でした。

秀忠は父・家康のような豪快な戦術家ではなく、地道にコツコツと物事を進めるタイプ。政治や統治に関しては非常に真面目で慎重でした。江戸幕府の強化のために秀忠がやったことのひとつが、各地の大名たちの力を抑えることです。

家康が生きているうちに、全国の大名を江戸に集めて統制する「参勤交代」を取り入れ、大名の領地を整理してその力をコントロールしました。秀忠は、これをしっかりと守らせるための制度を整え、幕府と大名の関係を強化しました。これにより、大名たちが勝手に勢力を拡大するのを防ぎ、江戸幕府の安定を確立しました。

幕府の法制度を整える

秀忠が将軍としてやったことの中で、特に重要なのが「法制度の整備」です。彼は、父・家康が制定した「武家諸法度(ぶけしょはっと)」を徹底的に整備しました。これは、大名たちが守るべきルールを定めたもので、各大名の行動を厳しく規制するものでした。

具体的には、秀忠は大名たちに対してこんな規制を作りました

  • 大名が勝手に結婚したり、同盟を結んだりするのを禁止。
  • 領地の増減や移動に幕府の許可を必須とする。

また、秀忠は「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」という法律も作り、朝廷の行動を制限しました。これにより、幕府が日本の政治の中心であることを強調し、徳川家による支配を安定させたのです。

大坂の陣で豊臣氏を滅ぼす

大阪夏の陣屏風
出典:ウィキメディア・コモンズ

秀忠が将軍として活躍した中で最も有名なのが、「大坂の陣」です。1614年から1615年にかけて行われたこの戦いで、徳川家と豊臣家が激突しました。豊臣秀吉の死後、豊臣家は大坂城を拠点に勢力を維持していましたが、秀忠と家康はこれを脅威と見なしていたのです。

そこで、秀忠は家康と共に大坂城を包囲し、豊臣氏を滅ぼすための戦いを開始しました。これが「大坂冬の陣」と「大坂夏の陣」です。結果、徳川軍が勝利し、豊臣氏は滅亡しました。

この勝利により、日本は完全に徳川家の支配下に入り、江戸幕府の支配体制が確立されました。 秀忠は、この戦いでのリーダーシップを発揮し、徳川家の支配をさらに盤石なものとしました。

江戸時代の安定を確立

豊臣氏を滅ぼした後、秀忠が取り組んだのは、日本全土の安定です。彼は、父・家康の政策を継承しつつ、自らもさまざまな政策を行いました。その一つが「寺社奉行(じしゃぶぎょう)」の設置です。これは、寺社の運営を監督する役職で、仏教や神社を通じて日本全土の秩序を保つ役割を果たしました。

また、秀忠は大名たちに対して、幕府への忠誠を誓わせることを徹底しました。大名が勝手な行動をしないよう、定期的に江戸に滞在させる参勤交代を強化し、江戸幕府の権力を安定させました。

この地道な努力によって、家康の死後も幕府の力が弱まることなく、江戸時代の長い平和を築くことができたのです。 まさに「コツコツ将軍」として、秀忠の存在は江戸幕府を支える大きな柱だったのです。

まとめ:徳川秀忠の地道な仕事が江戸時代を作った!

徳川秀忠の人生は、豪快な戦いで名を残した父・家康とは異なり、コツコツと地道に幕府の基盤を固めたものです。関ヶ原の戦いでの「遅刻事件」を反省し、その後の人生で慎重さと真面目さを活かして、幕府の政治を安定させました。

秀忠がやったことの中で特に重要なのは、法制度の整備と大名たちの統制です。これらの地道な仕事が、260年以上続く江戸時代の平和の基礎を築き上げたと言えます。豪快な戦国武将たちと違い、あまり派手なエピソードがないかもしれませんが、徳川家の時代を作り上げた「縁の下の力持ち」として、秀忠の存在は欠かせません。

彼の生涯を振り返ることで、地道な努力がいかに大きな成果を生むかがわかりますね。家康が築いた江戸幕府を、秀忠がしっかりと支えたからこそ、平和で安定した時代が生まれたのです。

参考文献
  • 日本大百科全書(小学館)
  • ブリタニカ国際大百科事典
  • 『徳川秀忠』関連書籍
  • 『江戸幕府とその時代』関連書籍
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